その96.日本人だからこそなれる、日・英・中の使い手(21)
世の中には、「身近な英語さえ聞き取れるのだから・・・」「身近な英語さえ出来るのだから・・・」などといった英語があたかも日本人にとって身近な、身に付けやすい言語であるかのような考え方をされている人がいるようですが、私が見る限り、英語は、日本人にとって、中国人にとっても、決して身近な言葉、或いは、身内的な言葉だとは言えません。やはり、地球の裏側の言葉で、かなり日本語、中国語とは隔絶した言葉だと言わざるを得ません。音声学的にも、文法学的にも、非常に異なった体系を有する言葉です。
では、なぜそのような錯覚が生じるかと言うと、それは、まさに日本や中国の学校教育における「皆英語主義」によるものだと推測します。いや、そう断言して憚りません。
学校教育だけではなく、日本や中国で生活していれば、英語は常に耳にしたり、目にしたりする言語です。英語はまさに氾濫しています。しかし、そのように英語に取り囲まれていても、英語のレベルは、どちらも、ネイティブから見れば、「うーん、通じることは通じるかな?」位のレベルにあります。
もし、仮に、中国語が日本の中学・高校で今の英語と同じ位教えられており、巷でも、中国語が耳や目に否応なく入って来たら、日本人の中国語のレベルはどの程度になっているでしょうか?
いや、これ以上、愚痴めいた話はしないことにしましょう。
以下では、今まで長々と述べて来たことを踏まえて、私なりの主張を申し上げたいと思います。それは、簡単に言えば、こうなります。
最も身近ではない、手ごわい言語である英語を、中国語より先に中学・高校で学んでいるからこそ、日本人は、日・英・中の使い手になれる。
(続く)
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