その160.「話す」「聞く」「読む」「書く」(6)
なぜ、よりにもよって、中国とは遠く隔たり、縁もゆかりもない長野県の人間達が、中国語の「音」にこだわったのか、考えれば考えるほど不思議に思えて来ます。
もしかしたら、山により外界から隔たれた山間の地ゆえに、遠く離れた外国の地の「音」にあこがれたからかも知れません。しかし、そういった条件は、日本全国にいくらでもあります。日本全国、どこの地方に行っても、その地方特有の日本語の「音」に囲まれ、皆、快適な言語生活を送っているのですから。
それはともかく、我らが先輩、三人衆は、独自に、中国語の「音」に立ち向かい、それなりの成果を収められています。特に、最後の伊沢修二に至っては、独自の発音記号を考案しています。
彼は、ローマ字方式も、仮名方式も中国語特有の音韻を的確に表すことはできないとして、「伊沢式発音表記法」の考案に至ったとのことです。
まさに、真正面から、中国語の「音」の問題、中国語の「音」をどのように学習すべきかという問題に取り組んでいます。
仮に、この姿勢を持った学究者が、現代に生きているとしたら、どうでしょうか?
私は、事態は、それほど大きく変わらないと思います。つまり、中国語の「音」の難しさは、今も昔も変わっておらず、同じことを考えたと推測します。ただ、今や、中国語において、「ピンイン」が不動の地位を占めている分、伊沢修二であっても、全くそれとは別個の発音記号を考案するという方向に研究を推し進めることはしなかったのではないかと推量します。
(続く)
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