その131.二段ロケット式外国語学習法(13)
3.「能力」が違う?
外国語の習得上、果たして、個々人の「能力」の違いが、挫折するか否かの分かれ目となっているのでしょうか?
外国語の前に、母語について考えてみますと、母語である日本語を大方の日本人はものにしていて、それなりに、使いこなしています。
「この人は、滑舌だ。」「この落語家は、実に、語り口がつやっぽい。」「このナレーターの語りには、人をうっとりさせるような、まろやかさが感じられる。」…「この子は、口が重い。」「この人は、ろれつが回っていないので、何を言っているのか、はっきりしない。」等等、確かに、「能力」の差が存在することは確かですが、ほとんどの人は、「日本語を話している」と認められているのです。
これらの人が、特定の外国語に向かう場合、母語における場合とは異なった状況が起きるでしょうか?つまり、同じ学習環境にある人達の中の一部分の人は、その外国語をものにすることが出来、一部の人は、どうやってもものにならず、挫折してしまうということが起こりうるのでしょうか?
この問題を考える上で、大変参考になるのが、スティーブン・ピンカーの『言語を生みだす本能』(椋田直子訳、NHKブックス)の次のくだりです。
「子どもはどんな母語であっても四歳になるまでに、やすやすと習得するといってよさそうである。」(下、p.70)
「周知の通り、幼児期に母語を覚えるのに比べて、大人になってから外国語を覚えるのははるかに難しい。大人の大半は、外国語を完全にマスターできずに終わる。とりわけ音素は身につかず、なまりが残ってしまう。」(下、p.94)
(続く)
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