その109.日本人だからこそなれる、日・英・中の使い手(34)
前回紹介したBBCのドキュメンタリー作者の基本的な姿勢、即ち、「世界の言葉や文法体系に、遅れているとか、進んでいるとかはないのだ」とする考え方を、更に一歩進めた場合、非インド・ヨーロッパ語族に属する言語を研究する場合には、「インド・ヨーロッパ語族」、中心主義を捨ててかかるべきだという主張が生まれてくるのは自然な流れだと思います。
その辺の事情を(30)で紹介した堀素子氏は、うまく説明してくれています。
私自身は、中国語文法を出発点として、「英語」を共通項の代表格に祭り上げることに矛盾を感じて来た訳ですが、日本語文法を出発点とした研究者の中にも、同じような結論に達している人が少なからずいるようです。いや、それどころか、日本語に係る研究者の方が、フラストレーションは大きいようです。
『日本語に主語はいらない』(講談社選書メチエ)の p。17〜p。18で、著者、金谷武洋氏は、次のように述べておられます。
「6.百年の誤謬
・・・・明治期にまるで寸法にあわない英文法が
日本語に押し付けられてしまったからである。
・・・日本が、近代化のために払った高価な『つけ』だったのである。」
中国語文法、日本語文法、いずれの研究においても、今や、大きな「価値観」の転換が起きつつあると言うべきでしょう。
(続く)
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