その104.日本人だからこそなれる、日・英・中の使い手(29)
さて、「その100」の続きですが、幸か不幸か、日本人は現在、必死になって英語を勉強しており、そのことが、日本人の中国語学習に与える「負の影響」として下記2点を挙げました。
1.「声調言語」である中国語と「非声調言語」である英語を同一視してしまう。
2.中国語の文法が英語の文法と同じ位、複雑なものと考えてしまう。
1.に関しては、すでに、論じ終えています。
今度は、2.です。
ここで、どうしても、「生成文法」の創始者、エイヴラム・ノーム・チョムスキー氏にお出ましいただかなければなりません。彼は、世界中のすべての言語に当てはまる文法、いわゆる「普遍文法」の解明に取り組んだ最初の人と言えます。
「生成文法」について分かり易く解説してくれている町田健氏の著書『生成文法がわかる本』(研究社)より、「普遍文法」関連する個所を、引用させていただくと、
「それで、生成文法ではその普遍文法というのは、人間が生まれつき頭の中にもっているコトバを覚える能力と同じものじゃないかと考えられているわけです。つまり、人間の脳には生まれつき普遍文法が組み込まれていて、その普遍文法は誰にとっても同じなんだけれども、それが具体的な言語に触れることによって、日本語とか英語とか中国語とか、その人間の母語が決まってくるんだろうということです。」(p.112)
このような「普遍文法」というもののありかを、英語をはじめとする西洋諸語に限らず、広く、アジアの言語、日本語や中国語やベトナム語等においても、探って行くということの意義を否定するものでは、全くありませんが、
「日本人の成人が、いかにしたら、中国人の赤ん坊達と同じように、極自然に、中国語の文法を身に付けられるのか?」
というテーマに取り組む者にとっては、
「言葉は、人類にとって、最大の習慣の一つであり、民族や種族によってかなり異なるものだ。特に、文法は、へだたりが大きい」
ということを痛感させらればかりなのです。
言葉を換えて言えば、
「中国語は、なぜ、英語とも、日本語とも、こんなに違った言い方を、習慣的にするのか?」
と、暗澹たる気持ちになることが、余りも、しばしばなのです。
(続く)
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